能を観てきた

美しい花がある。花の美しさというようなものは無い。

小林秀雄

さる数日前、家族で能を観てきた。中は写真撮影禁止(の気がする)なので、写真は無い。


何かこれだけ聞くと、上流階級な感じがするが、別にそう思った人はそう思っていてかまわないのであって、さらに言えば、実は全然上流でも何でもない。ようするに、少し歳をとった両親が、相撲とか歌舞伎とか、何かそういうものに興味を持ち始めたといったところであろうと思う。たまたま帰省した際に「能観るか?東京だけど。」と言われ、そういえば観たことないなぁと思い、行くことにした。昔、思うところあって世阿弥の『風姿花伝』を読んだことがあるのだけど、どうやらそれを親に話したことが、元々の原因らしいのだが。


観たのは宝生流九月五雲会。日本語訳すると、能のいくつかある流派の内の1つである宝生流の月に一度の定期公演の9月版。公式の宝生の能曰く、五雲会とは、

若手の役者を中心とした月例の会。本年より8月を除く毎月第3土曜日(稀に第2土曜日)に開催します。能4番狂言2番が演じられます。

とのこと。ふーん。宝生の能で番組も公開されている。チケットは学割効いたので、国からの予算ががっつり削減されている古典芸能にしては全然納得できる値段。ゆーても、学割映画の倍ぐらいはするけど。でも相撲や歌舞伎よりは安い気がしないでもない。


思ったことをいくつか。

能は長い

長い。番組表をよく見るとわかるが、6時間くらいやっている。休憩は全部で30分くらい。内容がどーとか、この長さにもかかわらず云々とか、そんなことより重要なことは、ものすごくおしりが痛くなるということ。5時間30分座りっぱなし。いやー痛かった。その後深夜バスで京都まで帰ってきたんだから、我ながら自分のおしりは鉄壁だと思う。ミサイルが落ちても耐えられるのではないだろうか。

能は遅い

遅い。花道から舞台に出てくるまで、平気で5分とかかかる。荘厳と言えば、まぁ荘厳というか…言うのか?知らんけど。僕は高校のとき弓道をやってまして、この遅さには多少耐えられるようにできていたから良かったものの、もし舞台の袖から突然ぴょーんと飛び出て大声で歌い始めるような現代舞台を期待していたら、大変な眠気に苛まれていただろう。弓道もそうなんだけど、日本古来の芸は1つの動きを一呼吸でやらなければならないので、何かちょっとした動作をするだけで大変な時間が掛かってしまう。


しかしまぁ不思議なもので、この遅さが「それっぽさ」を醸し出していたことも事実。全体的にゆっくりしているので、別に遅いことはあまり気にならない(ことが多い)。「こーゆー風にできている」と思えばいいし、そう思うことが自然に思える。


この遅さの長所は、別に上述の印象論だけではない。
能にも実は、ちゃんと「速い」動きもある。例えば、複数人の殺陣のシーンなど。この全体的なスローペースのおかげで、この激しいシーンが、とても激しいシーンに見える。ちゃんと激しく見える。音楽もないし、別にぎゃーすかまくし立てることもないのに、激しく見える。これは舞台装置の基本的機能を直裁に表現したものあって、そのシンプルさに驚く。意外とのめりこんで集中して観てしまった自分に、ちょっと萌え。

狂言はおもしろい

昔、中学の教科書に(小学校だったかも)『附子』という狂言が載っていた。それはどうでもいいんだけど、狂言は結構面白いですよ。「ゆっくりしていってね!」的な空気感があって好印象。まぁ元々能の間の寸劇みたいなもんらしいので、ゆっくりできないと意味が無い。

何言ってるのかわからない

分からん。古文調を、浪曲みたいなノリで歌うので、それはもうまさに日本語でおkといった感じ。なので、予習は必須。特にあらすじの予習はしていかないと、料金のもとは一切取れないと考えて良い。予習しておいて、ようやく単語が一部聞き取れる程度です。


能って観ているとほとんど歌劇みたいなもんで、ずっと歌ってる。喋ってるときも、節を付けて喋るので、それって結局歌で、やはりずっと歌っている。ハッチポッチステーションみたい。あれもグッチさんがずっと歌ってた。


一応こっち向いてしゃべっているところをみると、やっぱり能も演劇なんだなぁと思う。

後継者問題

後継者いないとか、そもそも人気が無いとか、つぶれそうとか、そんな話を学校では聞いた気がするんだ。でもね、ほらあれをご覧。むっちゃ客いるじゃないか。今回観たのは宝生流だったけど、半分以上席埋まっている。観世流に至っては毎回満席らしいじゃないか。誰だよ能は終わったとか言ってる奴。屋上来いよ。むしろ屋上が来いよ。


よく考えたら、相撲なんて結構満員御礼出るし、歌舞伎とか海老様DQNリア充だし古典芸能とか別に安泰なんじゃねぇの…。でも、相撲と能では哲学が違う気がするなぁ。まぁこの辺の話は、巨大に芸術論されているところだろうから、僕が語ることは何も無いだろう。押井守は言ったぜ?

すべては言い尽くされている

ってね!

古典芸能は型が死ぬほど大事なのです。なぜかというと、決まった動きをしないと、着物が乱れるからです。そして、その型から外れた動きをしたとたん、コケるからです。結構派手に、すってんころりんって感じに、転びます。弓道の試合でも緊張からか、よく転びそうになっている人を見かけました。能も「しかしよくこけないなぁ」という着物を着ているのですが、やっぱりその辺はプロだなぁと思うのであります。着物自体は、とっても綺麗です。僕がそう思うんだから、あれはよほど綺麗な着物なのだろうと思います。

能は狭い

舞台が狭い。いや、これより狭い舞台はそこらじゅうにあるんだろうけど…。正確に言えば、舞台が正方形なので狭く見える。正方形の舞台の中に、楽器隊と歌唱隊と演じてる本人達がいるんだから、そりゃ狭い。


でも、その正方形の空間を、とても上手に使っている。これは素人にも分かる。完璧に計算された位置に、すべてが置かれている。ほんとによく計算されていて、すべてが見えるのだが、見えなくていいものは、能に集中してくると、ちゃんと見えなくなってくる(気にならなくなってくる)。簡潔な舞台装置と言うべきものが、簡素に動作している。




いろいろ言ったけど、全体的な感想としては、「よく計算されているなぁ」ということ。整然としているし、簡素だし、そしてちゃんと効果的。なかなか魅せてくれます。結局、風姿花伝に書かれている「花」というものは分からなかったけど。分かりゃ苦労しねーか。