無知と外部化の善悪

大学のとある授業で上村松園展を観に行くということになった。そういえばこの展覧会に関しては京阪のつり革広告で見たことあった。父からも勧められていた。行けば単位になるし一石二鳥なわけだ。素晴らしい大学である。


しかしもちろん感想をレポートとして提出せねばならない。最初聞いた時には、上村松園の絵に描かれた人物から読み取れる情念とは情報学的に何なのかを述べよ、という課題だと思っていた。のだが、実は上村松園の絵をカルチュラル・コンピューティングで何か面白いことをせよ、というのが本来の課題であったらしい。いずれにしても、前者を何とか言語化しないことには、後者はできない。そういう思考過程で考えよ、ということだと判断した。


というわけで、上村松園の絵に描かれた人物から読み取れる情念とは情報学的に何なのか、という問題にどう答えるかと考えていたのだが、考えても思いつかない。そこで、画集の説明文を一通り読んでみる。すると、そこにほとんど答えが書いてあることが分かった。僕がさらに論じることは無いのではなかろうか。単に上村松園に関する本を読んでそれをまとめればよい。それ以上の論を求めるのならば、僕には芸術論の素地が足りない。


そもそも、日本画を見る機会がほとんど無かった気がしてくる。歴史の教科書に出てこないような最近の日本画家で、好きだと言えるような作家は松井冬子安倍吉俊の二人ぐらいなものであり、あまりに知識が無い。にもかかわらず日本画を見てそれについて書かねばならないとなれば、これは大変である。松井冬子安倍吉俊の作品に関してはいろいろ書きたいことはあるけれど、なかなか言語化するのが難しいと思っていたら、いろいろ評論が出そろってしまった。後の祭りであり、餅は餅屋である。


こう言ってしまうのもアレだが、上村松園の絵を見てそこから情念を感じるかどうかが、正直なところ、そもそも疑問である。顔に表情が無いし松園が何を伝えたかったのかよく分からない。松園の思想が絵から読み取れない。


画集の説明を一通り読んでみると、松園が悩みながら絵を描き試行錯誤を繰り返したことが分かる。僕らは、描いた物や人物の情念や感情を鑑賞者に伝えようと制作者が苦心することは、意外な程当たり前のことだと思っている。これが情念の存在に疑問を生じる原因だろうと思う。しかし松園の時代にはそれ自体が新しい試みだったのかもしれない。だとするなら、松園の悩んだことやその時代を考慮しないことには松園の作品について正しい判断も、自分なりの何かを得ることもできない。


情念とか思考とかがあるとか強いとか、そういう意味では松井冬子の絵は強烈である。『世界中の子と友達になれる』という絵からは強い欺瞞が読み取れる。というか、欺瞞しか無い。こういう絵なら情念や思考は読み取れるのだが、こと松園の絵から読み取ろうとするならば、これは難しい。ただ、人物の表情と人体(特に指)の描写は二人ともよく似ている。構図や装置は、松園は古典芸能の型通りであり、松井冬子はそれをもっと複雑にしている。松園って能か何かを参考にしたんじゃねーの?と思ったら、やはり能や謡曲を嗜んだという。全くそのまま作品に適用しているように見える。


古典芸能の場合、美しい花があるわけで、花の美しさがあるわけではない。(という説を援用することにする。)松園は情念を見てすぐにわかる形で表現することを好まなかったわけだから、顔だけ見て情念や感情が分かる訳がない。それを分かるには、抽象的な「文化的な何か」を信じるか、型のデータベースを強固にするかである。どちらも悪ではないが、どちらにせよこれらへの世界の敷居は今後上がるばかりである。


ならば視点を変えて、描かれた人物の表情をもっとわかりやすいものに変換するようなことをすれば面白いかもしれない。入力された顔を、言語化した感情の表現に応じた表情に変える、という技術はあり、可能である。いろんな感情表現を模した表情に変化させ、結果に違和感のあるものや違和感の無いものを比べたりできたら、僕のような現代っ子がいかに古典芸能の型の知識が無いかが露呈して面白そうである。