『怪物はささやく』を読んでの感想

今時の中学生はこんな面白い小説を読んで感想文が書けるんですよ。羨ましいですね。

物語はこの世の何より凶暴な生き物だ。(怪物の声がとどろく。)物語は追いかけ、噛みつき、狩りをする。
怪物はささやく

物語とは油断のならない生き物だ。(怪物が続けた。)物語を野に放してみろ。どこでどんなふうに暴れ回るか、わかったものではない。
怪物はささやく

ぼくにはまだ、あなたに言い残していることがたくさんある。この僕を物語として、物語を通じて生み出したのはあなただ。今ぼくは、物質化した情報としてここにある。ぼくが今こうして存在するのは、あなたのおかげだ。
屍者の帝国

だいぶ前に『ココロコネクト』なるアニメを少し観たのだが、奇しくもすべて物語についてである。

もともとこの感想文のネタを探していた時には、『ココロコネクト』で日本のアニメ産業の限界を感じた際の、ある種の諦念と怒りを鎮めるために、”物語の強度”をめぐる消費者と制作者の壁について書こうと思っていた。あれは割と酷い作品だと僕は思っていて、物語の設定だけで、それを物語としてしまおうとして、失敗している。設定以外に何もなく、そこには物語を語る者も、物語られるべき物語も存在しない。問題は主題、いや正確には主格の不在であって、物語の強度ではない。今から書くことは”圧倒的主格の不足”についてである。

物語は、それが物語られ制作される時にその主格を得る。その主格は物語からは見えない。それはいいとして、問題は、その主格が存在しなくても、コンテンツは成立してしまうように見え、低コストでオタクを釣れると思われていることである。僕の憤りと悲観はそこにある。僕にとって物語は、その物語の主格を示す記号であって欲しいからだ。さらに問題なのは、その風潮がなんとなく今の世相とよくマッチしていることである。さらにさらに問題なのは、それで消費できればそれでよくなってしまったことである。そして最後にもはや爆発して欲しいのは、それをソーシャルうんたらとかオープンなうんたら とかいって、かっこつけてしまう、貴方の近くにいるような、そういう人である。

『PSYCHO-PASS』で執行官のおっさんも言ってたけど、集合知は現象であって、それはインターネットというインフラとはあまり関係が無い。それを育むような土壌でもない。そういうことにしたい人たちはいっぱいいる。今の所の僕たちが好きな集合知・複雑さというのは、そこに主格がある上での、”何かやっている感”というだけで、そこで意識を高くして「俺はこういうことを言いてぇ!してぇ!」と言っても、もはやイタいだけです。現象に名前を付けて物語とし、それを金で買った労働力で生産し、金で買われた労働力がそれを消費するというのでは、資本主義の大勝利というもので、これは酷い。

豊田徹也『ゴーグル』を読んで思ったのだが、伏線は物語の強度とは関係がなく、伏線が強化されることは、主格をあいまいにしてしまう。群像劇は、ただ主人公が多いだけでは、ただの主人公が多い劇であるだけだ。ありていにいえば、何かごちゃごちゃしているがその中にこんな伏線が!的なものであるというだけだ。エロかグロでも入れなきゃ興ざめだ。伏線と謎が評価された時代がまだ続いているとは思わないが、水は低いところに流れる。

まぁあれですよ、物語は死んだ、っていう、そういうことです。大きな物語はとっくに死んで久しく、我々ポスト・キレる子供たちは、それに飢えている。頑張るったって何に頑張ればいいのよ?

物語が今後生き残るとしたら、それは物語の主格が膨大に生まれ、それが集合し、その集合に何の主格も無く、それでもその集合が別の現象を生み出すことぐらいじゃないでしょうか。それが生命だと面白いわけですが、このネタは『屍者の帝国』でやられてしまいました。でも生命も、主格が存在しないと生まれない気もするけど、僕が生命体である以上、その主格は見えないのです。

信仰や信念をもつということが、なぜ不寛容という態度と結びつかねばならないのか、また文化とか自由な人間性のような寛容な立場が、なぜ人間自身に最後の安心を与えないで、宗教的または疑似宗教的に不寛容な信へ移らざるを得ないのか。絶対的な信が絶対的な寛容と結びつくということは全く出来ない相談なのか。
宗教と非宗教の間 (岩波現代文庫―学術)

僕も社会人なので、見えない敵と戦うよりかは五体を投地した方が賢いと思うようにしています。